深田 上 免田 岡原 須恵

番外編 人吉球磨の「となりまち」東西南北

3. 盆地の : 伊佐・えびの・小林方面

 伊佐市は、平成20年(2008年)、大口市と伊佐郡菱刈町の合併によって誕生した比較的新しい市である。伊佐市と隣接しているのは人吉市と球磨村である。球磨村との境界は標高900m前後の深い山中にあり、狩猟採集の縄文時代は別として、農耕定住の弥生時代以降では、境界を越えての行き来はなかったと考えられる。

 それに対して人吉市との境界は、有名な久七峠(きゅしちとうげ)越えで知られる人吉街道が通っている。現在の国道267号線(人吉-薩摩川内)である。峠を越えると伊佐市の大口地区であるが、今は久七トンネルバイパスで簡単に超えることができ、有名な久七峠の趣は全く感じることはできない。お勧めは、曲がりくねっている旧道ではあるが、「久七峠」の石碑や司馬遼太郎さんがおそらく日本一と言った三面鏡のような県境石碑、それに峠の由来記などを目にすることができる。その三面鏡のような熊本と鹿児島の県境石碑は、久七峠から約600mも離れた熊本県側の場所に建っている。その訳が県境石碑の向かい側に立っている看板に書いてあった。

 「ここから600mの分水嶺に久七峠がある。昔は、肥後と薩摩の国境は稜線だったが、現在の県境はこの地である。昔、大口の町に久七爺さんという知恵者がいて、峠の境界石を少しずつ移動させたからという言い伝えがある ・ ・ ・」 久七爺さんは相当な愛国者だったようである。なぜなら、戦国時代の相良藩は、今の伊佐地方を治めていた菱刈氏と組んで薩摩と対峙した時代があったからである。この逸話は、当時の肥後相良藩と薩摩藩の覇権争いの象徴かも知れないと筆者は思う。

 さて、伊佐市もまた、大昔から人吉球磨地方と深い関りがあった。鹿児島県の伊佐市、出水市、薩摩川内市及び薩摩郡さつま町、宮崎県の小林市、えびの市及び都城市、熊本県の水俣市や天草市などは人吉球磨地方の人達と同じ民族だった可能性が高い。「盆地の西」で述べたように、それは、これらの地区の墓制が同じだからである。墓制とは、お墓の形や埋葬方法のことで、それは、「板石積石棺墓(いたいしづみせっかんぼ)」のことである。

墓6 墓7 墓8
あさぎり町新深田 水俣市初野神社境内 出水市高尾野町
墓9
墓10
墓11
薩摩川内市上川内町 伊佐市大口町 えびの市西長江浦
図1. 人吉球磨地方と同じ墓制地域の板石積石棺墓

 図1に人吉球磨地方と同じ墓制地域にある表層土が流失した状態の「板石積石棺墓」の例を示す。この墓がどのような構造になっているのかを示したものが図2である。この墓の造営当初は、表土に覆われているから図1のように見えるわけではなく、図2の破線の位置まで表土が流失すると、石棺を覆っていた板石が露出することになって、このようになるのである。あさぎり町の新深田遺跡では、すべての墓が表土で覆われ、元の状態に戻されているので、ただの野原になっていて遺跡への道路もない。しかし、出水市や水俣市では、図のように、展示館や保存施設などへ移築して展示されている。

 
平面図 断面図
平面図 断面図
図2. 板石積石棺墓の構造 原典:ウィキペディア

 伊佐市が人吉球磨地方と血筋的に近いと書いたが、それだけではない。地理や地勢的にも良く似ている。伊佐市中心部の大口地区は、東西と北部は肥薩火山群、南部は北薩火山群に囲まれたる盆地(大口盆地)であり、約2万5千年から3千年位までは、球磨郡と同じように、湖であった。また、海岸沿いの平地と比較して年間平均気温は低く、春や秋には「霧」が発生することも球磨盆地と同じである。さらに、盆地は、羽月川(はつきがわ)など川内川水系の河川がたくさんあり、盆地南部を東から西へ横断する川内川(せんだいがわ)に合流する。この川内川の源は白髪岳の真裏であることが地図を見るとわかる。人吉球磨湖の水も、この川に流れ込んだ時期があったことを、ヨケマン談義「100万年前の人吉球磨湖」で述べた。

 伊佐市のことばかり述べたが、えびの市も都城市も小林市も人吉球磨地方とは縁が深い。身近にしているのは、国道221号線と九州自動車道、二本の道路と肥薩線路の恩恵である。国道221号線の「堀切峠」を越すとえびの市である。「堀切峠」は、正確には国道221号線の旧道にある峠で、昭和47年(1972年)の加久藤トンネル開通までは使用されていた。現在の国道221号線では加久藤峠にあたる。この加久藤峠からの景色は先の肥薩線の項で紹介したように絶景である。

 地図を見ていたら不思議な箇所を見つけた。それは図3に示すように、えびの市と小林市の境界線が途切れているのである。球磨郡水上村と宮崎県椎葉村の境界線も140年間も不確定のままであったが、すでに境界は確定していることは、先に紹介した(現在もヤフー地図では途切れたままになっている)。しかし、えびの市と小林市の境界線は未だ未確定で、地図の上でも途切れたままになっている。

境界線
図3. えびの市と小林市との境界線の途切れ箇所

 その訳や経緯及び問題が発生した場合の対処策はどうなっているのか、両市に問い合わせてみた。その結果、次のような回答をいただいた(要約)。

 小林市からは、「不確定地域は、小林市東方とえびの市大河平であり、市境が確定していないこと、それに、国有林野と民有地の境界であれば地籍調査を行うが、ここは国有林野内のため地籍調査での境界確定は行わない。境界が不確定でも現時点で問題は生じていない」。

 えびの市からは、「小林市との未定地はちょうど立石林業株式会社の民有地となっており、国土地理院の1/50,000の地図で確認すると約1㎞程度の未定地が存在しています。本件については、かなり古い時期より境界が確定していなかったようですが、えびの市側は、大河平字大川筋という地域であり、さきほどの会社がえびの市と小林市にまたがって広大な林地を所有しているため、その地域内での権利関係が以前から明確ではなかったためということと、山深く分け入ることが困難であったため未定地となったということが経緯であります。
未定地が原因で障害が発生することは今のところございません。国からの地方交付税の算出基礎に行政区域面積が用いられており、未定地があると按分等により一時的に面積が算出されます。この交付税算定面積について確認書を関係自治体首長連名で取り交わしておりますが、隣接する自治体が市町村合併すると関係自治体合計面積に変更が生じるため、その都度、確認書を取り交わしております。その確認書の内容自体について紛争が自治体同士であるところではありません。それもあってか、自治体として未定地解消に向けた話し合いは特にないところであります」。

 両市とも境界線が未確定による問題はないとのことであるが、市の面積を出す場合は案分するのだろうか。境界が色分けされた自治体区分地図を見る限り、両市の境界は南北(上下)で区分されている。これが文句のでない妥当な案分なのかも知れない。

 さて、えびの市、都城市及び小林市には「熊襲踊り」を源とするような太鼓踊りがある。その様子を各市のホームページから借用したものが図4である。えびの市の「西長江浦大太鼓踊り」や小林市の「東方輪太鼓」は、五穀豊穣祈願とか、秀吉の挑戦出兵に際して島津公の軍勢の士気を鼓舞するためと伝えられているが、いずれも、先の「盆地の」の項で述べた「背負いもの」を背負い、熊襲踊り手はしめ縄を背負っている。多良木町上槻木地区の「上槻木太鼓踊り」も「からいもん」の踊りであることを先に述べた。

えびの 都城 小林
図4. えびの市「西長江浦大太鼓踊り」   都城市「熊襲踊り」         小林市「東方輪太鼓」

 南九州と人吉球磨盆とのつながりは、共通の墓制(板石積石棺墓)であったことから、今から約2千年前にもあったと前述した。その他にも交流があったことは、人吉地区を中心に作られた免田式土器の拡散分布からわかる。免田式土器とは、図5左に示すようなソロバン形をした土器で、熊本平野の南側を始め、南九州地区で多く出土する。図5右は、そのうちの八代市以南における免田式土器の出土箇所を地図上にプロットしたものである。免田式土器の出土数は熊本県で95ヶ所であるが、八代市以南での出土数は、人吉球磨地方が30か所、えびの、小林、出水及び伊佐地区の合計が20ヶ所あり、約2千年も前からこの地区と交流があった証である。

免田式   分布図
図5. 左:あさぎり町免田西下乙本目遺跡出土の免田式土器 あさぎり町HP
右:「八代以南」における免田式土器の分布図 原典:熊本県立装飾古墳館第三回企画展図録

 人吉球磨盆地の南、伊佐市、えびの市及び小林市などには、良く知られた平家落人の伝説や集落はない。ただ、都城市の高城町四家(たかじょうちょうしか)地区は、唯一、平家落人伝説の残る地域であることが、鹿児島藩第11代藩主の島津 斉彬(しまず なりあきら)が、この地区を見て回った時の「御道中記(おんどんちゅうき)の中に述べられて。この高城町四家という地区は、標高約200mの高原にあり、現在は牧草地が広がり、北側を大淀川が流れている。

 四家とは、黒木・井上・永峯・二見の四家のことで、平家落人伝説の村落である。平家の残党である四家の人達の世を忍ぶ仮の姿は、先述した椎葉や水俣の落人達とは全く異なるものであった。それは籠城である。その城は、都城市高城町四家字平八重地区にあった「平八重(ひらばえ)城」、同じく高城町四家字大開地区の「井之(いの)城」である。井之城の城主は四家の一人、井上氏である。追われる身の落人がどうして城主になりえたのか不思議である。佐世保にも平家の落ち武者が領主になったとの記録がある。これらは元々、九州は平家の地盤であったことの証かもしれない。字(あざ)は異なるが、二つの城の距離は500m程で、まさしく肩を寄せ合い、籠城していた様子が伺える。現在、二つの城址は牧草地や畑になっており、標柱が立っているだけである。

 小林市やえびの市には紹介するような平家落人伝説はないが、隣接する球磨郡や人吉市には、この地方の人であれば誰でも知っている謂(いわ)れがある。それを、「おとなりのまち」と関連付けてまとめておこう。
まず、あさぎり町の皆越(みなごえ)であるが、「皆越」の地名と姓の由来が平家の落人と関連している。合併する前の上村時代に編纂された「上村史・統一巻」には、その由来が次のように記載されている(原文のまま)。

 ・ ・ ・愈々九州山脈にかかれり。然れども山険にして谷深く、容易に超ゆべからず。越えては渉り、 渉りては越えて幾日か続きたり。やがて超すべき山も残り少なになりし時、落人頭の後をふりかえりて曰く、「者どもは皆越しか」と。然れども長途の旅につかれたる落人連には続くもの少し。よし然らば越えし者にとて皆越の姓を賜りたりといふ。落人は尚旅を続けて、遂に肥後に入り、球磨の山間に落ちて鎮まれり。此地即ち現在の上村大字皆越なりといふ。其の一族は尚進みて現在の石坂に留りたり。此れ现在の皆越家なり。・ ・ ・

 前段には、この逃避行の人達は、最後の壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党であり、ひそかに九州に上陸し、山伏や商人に変装して九州山地に辿りついた、とある。

 さて、「上村史・統一巻」には、・ ・「残党は尚ひそかに九州に上陸したりといふ」とある。その上陸した場所はどこなのだろうか。越えた山や峠はどこだろうか。皆越地区は、白髪岳(1417m)、猪ノ子伏(1233m)、国見山(1229m)、陀来水岳(1204m)、小白髪岳(1183m)、など、東も西も、 南も北も千メートル以上の山に囲まれている。中でも、白髪岳の東側では、岩瀬川がえびの市や小林市の方面に流れ、西側では、川内川がえびの市側へ流れていて、白髪岳は分水嶺となっている。北側では、流れは逆向きで、免田川が球磨盆地のあさぎり町方面に向かって流れ下ってい る。したがって、白髪岳のすそ野を占める皆越地区もまた分水嶺といえる。

 まず、九州への上陸場所であるが、「盆地の」で紹介した「椎葉山由来記」には、那須の大八郎の追悼勢は、周防灘を経て豊後の国(今の大分県)玖珠地区に入り、肥後国(熊本県)阿蘇路を辿り、日向(宮崎県)の椎葉へ向かったとある。皆越地区への追手が大八郎の軍勢であったのかどうか、また逃避行の平家残党も、その軍勢に追われていたのかどうか、不明ではあるが、「上村史」には、「落人は尚旅を続けて、遂に肥後に入り、球磨の山間に落ちて鎮まり」とあるから、平家の落人は東南の小林やえびの方面から来たと考えられる。

 次に、「者どもは皆越しか」と尋ねられた山や峠は、どのあたりなのだろうか、山は白髪岳なのか、峠は温迫峠なのか。椎葉村の落人伝説に沿って想定すれば、那須の大八郎は、平氏残党追討のため日向に下り、高千穂町の向山に拠った残党を追討したのち、椎葉に赴(おもむ)いている。追討分隊から皆越方面へ逃れてきた落人は、日向方面から小林やえびの地区を経て川内川を遡(さかのぼ)り、温迫峠に至ったルートが可能性として一番高い。

キジ馬 花手箱 羽子板
図6. 平家落人伝説の人吉の伝統玩具:キジ馬(左)、花手箱(中)、羽子板(右)

 「上村史」には、また、 「遂に肥後に入り、球磨の山間に落ちて鎮まれり」とも書いてある。平家の落人は、皆越の山間部だけに留まらず、狩所や石坂地区で狩りなどをしていたというから、平家落人伝説が人吉地区にあってもおかしくない。その好例が図6に示す人吉の郷土玩具、キジ馬、花手箱および羽子板である。共通する絵柄は平家の赤旗と同じ色の赤い椿である。これらは平家の落人が生き延びていくために制作し、里人と物々交換してしていたものと伝えられている。男の子対象のキジ馬頭部には「」の文字が書いてある。これが人吉キジ馬の特徴であり、平家落人伝説に由来することは「人吉球磨の産物」の項で述べている。しかし、「赤い椿」が平家落人伝説とどのように関わっているのだろうか。平家の落人で名高い福山市沼隈(ぬまくま)町の「平家谷」あたりでは、古くから白を忌避(きひ)し、赤を尊ぶ風習があるそうで、平家谷は「白さぎさえも舞い下りず」の地と伝えられている。

 平家物語に出てくる沙羅双樹(さらそうじゅ)花の色は黄白色である。沙羅双樹の代替と言われるナツツバキ(夏椿)の花の色も乳白色である。白は源氏の色である。色では説明つかないとすれば、なぜ椿(つばき)の花なのだろうか。日本原産の山椿(やぶ椿)は、古代朱の椿皿のごとく、もともと紅(あか)い。そして、ナツツバキもそうであるが、朝咲いたら夕方には落花するほど儚(はかな)い命である。また、その落花の仕方も、花弁が個々に散るのではなく萼片(がくへん)めしべだけを枝に残して丸ごと落ちる。その潔(いさぎよ)さと儚(はかな)さを平家色である赤を古来の椿の花に結びつけた。そのようにも推測できるが、読者諸氏はどのような見解をお持ちだろうか、お聞かせいただければ幸いである。

 あさぎり町岡原にも平家落人伝説がある。平 景清(たいらのかげきよ)は平家の猛将で、藤原姓では藤原 景清(ふじわらのかげきよ)であるが平姓の平 景清がよく知られている。壇ノ浦の戦いで敗れ、日向(宮崎県)へ落ち延びるが、「源氏一門の繁栄を見るに耐えず、拙者の健眼が敵であるぞ」と叫んで自ら両眼をえぐって投げ捨てた。その地が生目(いきめ)であり、そこに眼病に効験ありとされる「生目神社(いきめじんじゃ)」がある。盲目となって侘しい生きざまで日々を過ごしていた景清を娘の人丸(ひとまる)が訪ね来て看病し、24歳で亡くなったという。宮崎市下北方に立派な景清廟堂があるが、そこが景清と息女人丸の墓とされる。

 ところが、あさぎり町岡原北切畑には、景清を追って落ち延びてきた娘のお墓と伝えられている場所がある。図7がそれである。お堂の中の墓碑には「聞伝景清息女之墓此所也」と刻まれている。ここがそうであるならば、娘もやはり皆越えした平家の落人連の一員だったのだろう。狩所から、この墓のある切畑まで、たった3キロの距離である。

お堂 息女の墓
図7. 岡原北の景清息女の墓 出典:あさぎり町HP

 福岡県粕屋郡新宮町には人丸神社、鎌倉には人丸塚、宮崎市下北方には景清廟があり、景清と人丸の墓とされている。景清の墓や塚の伝説地は、関西にも、中部にも、そして関東にも及んでいる。平家落人伝説となると、やはり九州が最も多い。「落ち行く先は九州相良」は浄瑠璃「伊賀越の仇討ち」のセリフであり、江戸時代の荒木又右エ門の時代であるが、平家の落人にピッタリである。


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